この前、テレビを観ていたら、ある放送作家がこんなことを言っていました。
「偶然も、それが重なると、これは偶然なんかじゃないと気付く瞬間がありますよね。」
この言葉の意味。
とてもよく分かる気がしました。
今日は、そのお話しをしようと思います。
この前、間借りさせてもらうことになったカフェに行ったとき、カフェの前に、思いも寄らない人が立っていました。
中学生のときの同級生で、
2年近く会うことのなかったその友だちは、
ご主人と二人で、
店の前に、
立っていました。
どうして?
こんなところに?
rituちゃんが?
そう思いました。
住んでいるところから、
そのカフェはかなり離れているし、
こんな裏通りのカフェを、どうして知ってるの?
「rituちゃん!どうしてここにいるの?」
わたしは思わず、rituちゃんに声を掛けました。
rituちゃんとは、
いつも、そう。
お互いに。
何かの節目に立っているとき、
(これでいいはずなんだけど、踏み出す勇気がなくて、)ちょっと迷っているようなとき、
長い間、
なんの関わりもなく、
過ごしていた相手なのに、
突然、そこに相手が現れるのです。
進学のこと、
結婚のこと、
手術のこと、
どちらに進むべきか迷っているとき、
普段なら会うはずもない場所で、
会うはずのないわたしと、
偶然に出会い、
rituちゃんは、
なんとなく、
「ああ、nicoちゃんと会えたから、これでいいんだ。そうしよう。」と、
そう思うそうです。
わたしも、同じで、
進学先や、
家を建てる場所や、
店を開く場所、
迷っているけれど、ここでいいんだとも思っている、その場所で、rituちゃんと、ばったり会い、
そして、わたしは、
なんとなく、
「rituちゃんと会えたから、この場所で合ってる。ここにしよう。」と、
そう思うのです。
rituちゃんも、わたしも、
人生の節目にあるときに、
偶然にばったりと出会い、
次のステージの場所を、
ここにしようと、決めてきたのです。
rituちゃんに会えたから。
nicoちゃんに会えたから。
もう一つ、rituちゃんとの不思議な偶然は、
二人とも、
自分の子どもに、
同じ、cicoという名前をつけています。
示し合わせたわけではないのに。
話し合ったわけではないのに。
rituちゃんの娘はcicoちゃんで、
わたしの娘はcicoでした。
とても、不思議。
でも、
この偶然は、
もはや「偶然」なんかではない。
rituちゃんがカフェの前に立っているのを見たとき、
わたしは、
そんなふうに、
思いました。
思わずには、
いられませんでした。
「また、rituちゃんが教えてくれてる。」
「ここでいいんだよって教えてくれてる。」
生きていると、
何度も、ふとしたときに、
「偶然」と出会います。
その「偶然」は、
楽しいものばかりではありません。
どうしてこんなことに…
そんな望まぬ「偶然」も、
時には起こるものです。
その、
どんな偶然も、
偶然と、
偶然を、
糸でつなぐと、
これは偶然なんかじゃないと、
気付くときがあります。
これは偶然なんかじゃないと、
繰り返し、繰り返し、
そう思う。
偶然が重なって、
気付くと、いつも、
この場所に戻って来てしまう。
さあ、こちらへ。
こちらへどうぞ。
どうぞ、こちらへ。
「偶然」を繋いた糸の先は、
たった一つの終着点に向かっている。
そんなふうに思えた、
春の日が待ち遠しい、
昼下がりの出来事。
空はとても優しい水色で、
ふわふわの綿雲が、
ゆっくりと、
わたしたちの頭の上を流れていきました。
nicosa