大学4年生の時でした。
高校でお世話になった古文の先生が、
わたしの家を訪ねて来られました。
陸上部の友だちが、
交通事故で亡くなった、
その数ヶ月後。
6月のことでした。
今日は、たいせつな友だちとの約束のお話、後編です。
先生は、
足を悪くされ、
娘さんが車椅子を押して、
わたしの家まで来てくださいました。
あの時70歳をすぎていらっしゃったと思います。
わたしが高校生の時は、
定年後に非常勤講師として教壇に立っていらっしゃいました。
先生は、
わたしの高校が、
まだ旧制女学校だった頃も、
その旧制女学校で、
先生をされていました。
わたしの家の周辺は、
坂の多いところでしたので、
道中はとても大変だったと思います。
先生は突然にいらっしゃいました。
玄関先に入っていただきました。
車椅子なのでここでと、おっしゃいました。
なぜいらっしゃったのか分からず、
ただ驚いているわたしに向かって、
先生は、
以前とちっとも変わらない落ち着いた口調で、
話し始めました。
ハンカチで汗を拭いながら。
「近くまで来たものですから。」
「お元気にしてらっしゃるかと思って。」
「お友だち、亡くなってしまったわね。あなた、仲良くされてたわね。」
「結婚の約束をしていた方と車に乗っているときに事故に遭ったと。」
「可哀想なことをしました。まだとてもお若いのに。」
「棺の中の彼女は、とても優しいお顔でした。」
「ほんとうに、可哀想なことを。」
先生は、
わたしが友だちの葬儀に行かなかったので、
心配して来てくださったのかな?
わたしはそう思って、
あまりにも驚いてしまって行けなかったこと、
最後の挨拶をきちんとしなければいけなかったと後悔していること、
お盆にはご実家を訪ねてお父さんとお母さんにご挨拶しようと思っていること、
先生に話しました。
先生は優しく微笑んで、
「あんなに若く突然亡くなってしまったら、周りの人はそれを受け止められないものです。そういうものです。」
「わたしは今日、その話をしに来たのではないのですよ。」
「ごめんなさいね。辛いことを思い出させてしまって。」
「あなたが、どうしていらっしゃるかと思って。」
それからしばらく、
わたしの顔を黙って見ていらっしゃいました。
わたしが困っていると、
先生はまた話し始めました。
「あなた、高校の時はスポーツをしていましたから、日焼けをして真っ黒でしたね。」
「ふふふふ、あの頃は気付かなかったけれど、色の白いお嬢さんだったのね。」
「ほんとうに。色の白いきれいなお嬢さんになられたこと。」
先生は、
そう言ってわたしに微笑みかけながら、
なぜか、
目を潤ませていらっしゃいました。
「亡くなられたお友だちの他に、もう一人、仲良くしてらっしゃる子がいましたね。色の白い女の子。大人しい感じの。」
わたしと先生は、
わたしのもう一人のたいせつな友だちのことを話しました。
そして、わたしは、
久しぶりにお会いした大好きな先生に、
自分と友だちの近況をたくさんお話ししました。
同じ大学の文学部に通っていること、
友だちは大学で中国文学を専攻していて、
近く中国にホームステイに行く予定にしていること、
友だちはおばあさんになったとき図書館で働いていたいと図書館学もおさめていること、
わたしは英文学を専攻していること、
アメリカ人とイギリス人の先生が英語でする授業があって、とても苦労していること、
わたしは大学で図書館学を勉強するのは諦めたこと、
(先生は、高校の図書室担当もされていました。)
それから、
わたしも友だちも、
なかなか就職が決まらないこと。
「そうでしたか、二人とも文学部に。」
「あの方も古文が好きでしたね。あなたもね。ノートを見れば分かりました。」
「あなたの作文を、わたしがコンクールに出したことがありましたね。」
「漱石の『こころ』の感想文でしたか。」
「二人とも大丈夫。就職先は見つかりますよ。」
帰り際に、
先生が、
わたしの方を振り返って、
ふと、
おっしゃいました。
「それとあなた、なんて呼ばれていました?」
「nicoじゃなくて他に?」
「tenです。」
「アニメのキャラクターの声に似てるって言われて、そう言われてたこともありました。」
わたしがそう答えると、
先生は優しく笑って、
うつむいて、
長いため息をひとつ、つきました。
それから、
「そう。」
「tenちゃん…」
「tenちゃんでした。」
先生は、
うつむいたまま呟きました。
それから、
ゆっくり顔をあげて、
すこし長い間、遠くを見ていらっしゃいました。
あの時は、
なぜ先生がわたしの家にいらっしゃったのか、
分かりませんでした。
坂の多い不便なところなのに、
車でもないのに、
ちょっと近くに来たからと、
車椅子で寄って来られるのは不自然に思えましたから。
あの6月の大空襲の日、
先生は、女学校で、生徒たちの被害状況を調べていらっしゃいました。
みんな無事でいてくれたら…と、そう願っていらっしゃいましたが、1人、また1人と、亡くなったり、怪我をしたりという情報が入ってきたそうです。
そして、
学校活動のために家から外出していた生徒の、
その安否を、
生徒の家まで行って、
保護者に知らせるというのが、
先生の仕事だったそうです。
先生はその時、新任の教師で、
お歳は20代の前半でした。
先生が、
亡くなった生徒の家を訪ねると、
保護者は、
「なんで、うちの子が死ななならんのや!」
「子どもを返せ!」
そう言って、
インターネットも、
携帯電話もない、
戦争の時代に、
安否を一生懸命に調べ、
学校から徒歩で知らせに来てくれた、
先生をせめたてました。
まだお若かった先生は、
何も言えず、
ただただ、頭を下げ、
「申し訳ありません。」
そう、謝るしかなかったそうです。
先生は何ひとつ悪くはありません。
悪いのは戦争です。
すべては、
すべては戦争が引き起こしたこと。
その大空襲の年の8月15日、
長い戦争の時代は終わります。
たくさんの命が犠牲になりました。
戦争に勝った国も負けた国も、
いったい何が良くなったというのでしょう。
大地は焼け、
生活は一変し、
人を傷つけてしまった人の心にも、
生き残ってしまった人の心にも、
消えることのない、
心の傷が残りました。
戦争が終わってからも、
先生は、
戦死した生徒たちのご家族のところへ、
毎年、毎年、
毎年、
ずっと通って、
ご家族とお話をされてきたそうです。
70年以上も。
ずっと。
「もう忘れたい。」
「先生、もう来ないでください。」
そう言われることもあったそうです。
先生は、
自分の生徒たちを守ってあげられなかったことが、
悔やまれて、
悔やまれて、
どんなに悔やんでも心はおさまらなくて、
どうしようもなかったのだそうです。
ご家族への訪問を続けられました。
先生は、
手記の中に、こう記されています。
「せっかく女性として生まれてきたのに、女性としての喜びもしあわせも何も知らずに、あんなに若くして亡くなってしまった生徒たちのことが、わたしは、不憫で、不憫で、仕方がありません。戦争などなければ、きっとあの子たちは、もっとたくさんの喜びやしあわせを経験できたことでしょう。わたしは、戦争が憎くて、憎くて、仕方がありません。」
わたしの家には戦争で死んだ人は誰もいません。
でも、先生は、わたしの家を訪ねて来られました。
大学生になったわたしを見て、
先生は、
安心されたでしょう。
ご自分の生徒が、
平和な日本で、
しあわせに歩みつつあることを、
ご自分の目で確かめられて。
もしかしたら、
先生は、
わたしを、
色の白い、
かわいらしいお嬢さんだったtenちゃんの、
生まれ変わりだと、
思われたのかもしれません。
わたしを、
tenちゃんと重ねて見ていらっしゃったのかも、
しれません。
あの戦争で亡くなった人たちは、
すでに新しく生まれ変わり、
新しい今世を生きはじめているのかもしれないと、
そう思われたかもしれません。
口から発してしまうと、
嘘になりそうなので、
先生にお話しするつもりはありません。
でも、先生、
わたし、
ちゃんと、
女性としてのしあわせも、よろこびも、
今は、知っていると思います。
先生が、
ずっと学校で待っていてくださってよかった。
あの日からずっと、わたしたちのこと、
忘れずに思い続けてくださって。
学校の、
さくらの塀。
思い出す度に、
涙が止まらなくなります。
nicosa