10月最後の日、
朝起きてテレビをつけて、
映し出された映像に、
目を疑いました。
首里城がなくなっていました。
やっと復元されたはずの、
朱い城が、
灰になっていました。
わたしは、
一回目は、
修復中で、
先に修復されていた、
守礼門の前で、
写真を撮りました。
小学生のとき、夏休み、
はじめて沖縄に行ったわたしは、
現地に着いてすぐに、
りんご病になってしまいました。
現地で病院に行き、
熱が下がるまで、
ホテルの中で、
過ごして、
沖縄旅行で、
はじめて見たものが、
朱い門。
守礼門でした。
王朝の時代、
戦争の時代、
アメリカによる統治の時代。
首里城という場所は、
目の前で起こるたくさんの出来事を、
ただ黙々と、受け止め、
1972年(昭和47年)5月15日、
沖縄県は本土に復帰しました。
その頃の日本では、
飛行機のテロがあったり、
飛行機の事故も、
多かったようですが、
10年ほど、時は流れて、
ある日、
父が、
わたしと弟に、
こう言いました。
パスポートなしで、
沖縄に行けるんだよ。
飛行機で沖縄に行ってみよう。
飛行機も、
もう安全だ。
行ってみよう。
海水浴をしよう。
海がとてもきれいだよ。
「うん。」
わたしは、お気に入りの、
白いお魚の模様の青いワンピースの水着を、
リュックに、ギュッと押し込みました。
沖縄では、
「ゾウの鼻の形の岩」も見ました。
きれいな海を泳ぐ「きれいな魚」も見ました。
「海すいよく」をしました。
父は、
お土産をたくさん買いました。
本土にはないからと、
泡盛というお酒を買いました。
「沖縄はね、ちょっと前まで国際線の飛行機で行ってたんだよ。パスポートを持ってね。日本なのに、ずっとアメリカだったんだ。」
「この中に城があって、この城は、何度も壊れている。でも、いつも建て直された。」
父は忙しい人で、
寡黙な人で、
わたしは、子どもの頃、
あまり、父と話をした記憶がありません。
でも、
沖縄旅行の時の父は、
とても楽しくて、
あの時の父の笑顔や、
父の言葉を、
今でも、
一つ一つ、
とてもよく覚えています。
子どもの頃の、
父との思い出は、
ほんとに少しだけ。
母が病気で入院していた時、
わたしが熱を出して、
学校を休んだことがありました。
弟は祖母が預かっていました。
家には、
父とわたしの二人だけ。
父は早起きをして、
海苔が一枚、中に入った卵焼きと、
おにぎりを作って、
家の窓から迷い込んで来て、
それから、ずっとわたしが大切に飼っていた、
「ムク」という名前の、
セキセイインコの鳥籠を、
わたしの見える所に置いて、
「早く帰って来るからね。」
「お腹が空いたら、おにぎりと、卵焼きを食べなさい。」
そう言って、
わたしの頭の下に氷枕を差し込んで、
おでこに、冷たいタオルを置いて、
仕事に出かけました。
ムクの鳥籠には、
きれいな水と、
鳥の餌が入れられていて、
掃除もされていて、
ムクの大好物のレタスが、
差し込まれていました。
その時、
わたしは、
とても嬉しかったのを覚えています。
わたしがムクを大好きなこと、
ムクがあの種類のレタスしか食べないこと、
わたしが卵焼きを大好きなこと、
父が、それを知っていてくれたこと。
朱い城が、
焼け落ちて、
灰になってしまった、
その映像を見て、
父との思い出も、
すべてなくなってしまうような、
そんな気がしました。
思い出の場所、
人の想いを受け止めてきた場所、
大切な場所。
でも、
父は言っていました。
「いつも、建て直された。」
朱い城は、また長い年月をかけて、必ず再建されると信じています。
nicosa